物語の部屋

オリジナル短編。少し不思議な話など。とりとめのない話。

花や散るらん 

 久しぶりに会わないかと彼から連絡があったのは、桜の花が満開を迎えた3月の末のことだった。 「今、実家に帰ってきてるんだ」 電話の向こうで彼が言った。 「退院したのか」 「うん、先週ね。一人暮らしはまだ無理だからって、こっちでお世話になってる」 「調子はどうだ」 「悪くはないよ。あれも食べろこれも食べろってうるさく言われてかなわない」 小さく笑いながら彼は言った。 「でね、水路の横の桜が見頃らしい...

紫陽花の咲く庭

 いつものように、夕食後に淹れた珈琲を飲んでいるときだった。花瓶に挿した紫陽花の花弁が茶色くなりはじめていることに気がついた。 飲み終えたカップを下げるついでに、卓上の花瓶もシンクへと運ぶ。引き出しから鋏を取り出すと、茶色く変色した花弁だけを、二つ、三つと切って捨てた。 一緒に挿していたホタルブクロも、同じように萎れた花房だけ摘み取って花瓶に戻す。 花瓶の中は少しガランとした感じになった。それでも...

翡翠の翅

 「何て読むの、これ。“スイ”?」 翠、という字を指差してその子は言った。小学校3年生のときのことだ。 「…当たり」 どこか憮然とした面持ちでスイは返事した。そうして思わずまじまじと相手を見つめた。 「なんでわかったの?」 やや厄介ともいえる自分の名前を一発で正しく読んだのは、その子が初めてだったのだ。大人たちだって大抵間違えるのに。 だがその子はまるで当たり前のことのようにこう言った。 「だって、...

真空の箱

 夜中にふと目が覚めた。目が覚めて、どうして目が覚めたのだろうとしばらくの間考える。辺りは真っ暗で、何の物音も聞こえない。 何時だろうか。そう思い、枕元の目覚まし時計を手に取ろうとして、あれ?と思った。腕を伸ばそうとすると壁に当たる。不思議に思って反対側の腕も伸ばしてみたが同じである。身体を囲むように両側に壁がある。狭い。これではろくに身動きも取れない。何かの隙間に身体がぴたりとはまってでもいるか...

飛ぶ人

 これはスイにだけ話すんだけどさ、と急に声をひそめてサクが言うから、スイは軽い緊張とともにサクの顔を見つめ返した。 「なに?」 「入院してたときのことなんだけど」 「うん」 サクが急性のアレルギー症状のようなものを起こして入院したのは先週のことだった。3日間ほど入院して、退院したのが一昨日。学校はまだ休んでいるが、もうすっかり元気だと言うので、スイは今日、学校帰りに見舞いがてらサクの家に寄ってみた...